「上海姑娘」
今となってはもう遠い昔の話。
俺はそのころ上海港のそばにある安宿の密集地帯に住んでいた。
4月の中頃、春だというのにそこはやけに寒い雨の日が続いていて、繁華街を歩く気にもなれず毎日そのドブ臭い宿の周辺でぼんやりと暇を持て余した日々を送っていた。
早朝部屋を出ると、軋む階段の踊り場でスカジャンを着た金髪の酔っぱらい男が全身黒ずくめ女に抱かれていて、その女のやけに赤い口紅が目の端から消えないうちに宿の食堂が見えてくる。それは食堂とよぶにはあまりに小さい台所のような場所で、俺はそこで毎朝硬いサンドイッチと薄い紅茶の英国にかぶれた朝食をとった。宿のオーナーの娘は服装こそみすぼらしいがその場に似合わない美しい少女で、紅茶をついでまわり染みだらけの服の端で手を拭う姿を眺めるのが密かな楽しみだった。たまに俺の部屋へ煙草を届けに来ては俺がこれまで訪れた国々の話を嬉しそうに聞き、その黒い瞳を輝かせていた。
彼女は俺の鳥の巣のような髪が好きだといった。
俺は彼女のいつもどこか傷ついたような目が好きだった。
たまに女を連れて宿に戻るとその瞳が一層寂しげに伏せられて、それが増々俺の心を惹きつけたんだ。
ある晩、俺は近くの賭場でいくらかの金を手に入れた。
その金を上着のポケットに突っ込み、甲板員のラーンがこれから数日かけてシンガポールへ行くというのでそれに乗せてもらい、数ヶ月間滞在したこの街を離れることにした。
彼女に世界を見せてやりたい。こんな場所は彼女には似合わない。
夜が明ける前、そんな気持ちで彼女の手を取ったが、彼女は困ったように微笑み何も言わず微かに首を横に振るだけだった。
いつも遠くで聞いていた汽笛が耳の側で大きく唸り、舟はゆっくりと港を離れて行く。
宿屋街はあの都市の中ではあまりに小さかかった。
見えない程に小さかった。
細かく降る雨がくわえた煙草の火を消すと、春は上海の霧の中へ。
深い何処かへ消えてしまった。
遠く見えなくなったあの街にもう思うことはないが、あれから春がやけに物憂げな季節になった。
そんなことがあったんだ。
END
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