「Mr.Lonely」- Bobby Vinton

「Mr.Lonely」

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今晩マヌエルの部屋を訪ねたのは実に数年ぶりのことだった。
オレンジ色のドレスを着た彼女は相変わらず美しく、白い指の間に挟む煙草の銘柄も変わってはいなかったが、ブラウンのマスカラが目の下までうっすらと残っていて少し疲れているように見えた。
「あなた、私のこと忘れていたでしょう。」
そう言って微笑むので僕はまさかと言いながらタイを少しゆるめた。
「忘れてしまっていたら、ここにいるのは運命だよ。」
女性らしくきちんと整えられた部屋を見渡すが何処にも彼女以外の人の影がない。風の噂で聞いた、最近夫と幼い息子を失ったというのはどうやら本当らしい。
「やぁ、残念だったね…その…」
言い淀んでいると彼女は困ったように首をかしげた。
「だって、家族を亡くしたんだろう。」
目の前のグラスに注がれるビロードのようなワインの流れに飛び込みたい気分だ。
気の利いたことひとつ言えない自分が情けないと思う。

突然、ビロードが乱れるように泡をたてて揺れ、口紅のついた煙草がぷかりと浮かんだ。
怒らせたかと思い驚いて彼女のほうに視線を戻すと、意外にも彼女は少女のように笑っていた。
灰は口紅と混ざって油のように浮かび、ワインの海を泳ぐ細い体は赤黒く染まってやがて狭く暗い底へゆっくりと落ちていく。
僕はごくりと唾を飲んだ。
「あなた知らないのね。空にある星は毎晩死んで、翌朝生まれ変わるのよ。そして自分が再び輝ける夜を待ってる…。」
窓のほうを見る彼女につられて僕も視線を窓にやったが、カーテンが閉められていない窓には酷く戸惑った自分の顔が夜の漆黒の中に驚く程はっきりと写し出されているだけだった。
星はおろか、庭のライムの木さえマヌエルのように難解な言葉で僕を嘲笑っているようだ。
「でも…これから君はどうするの。生活のあてはあるのかい。もし困っているようだったら僕が…」
氷のように冷たい指が言いかけた唇の動きを止め、指に残る煙草の嫌な香りが鼻をかすめた。
「ねぇガエル、私のことを哀れと思うかしら。あなたは点しか見えていないの?私がどこへ行くか知ってる?家に帰るのよ。」
家に帰るのよ、と呟くように繰り返す彼女の瞳の奥が一瞬ボルドー色に揺らめき僕はもうそれ以上何も言えなくなってしまった。

もう少し行動力を持った人間だったら、知恵の働く男だったら、と物心ついた頃から散々悔やんできた。きっと少年サッカーチームではフォワードになれただろうし、皆の前でお尻を晒さなくて済んだだろう。もっといい仕事に就いていただろうし、バラデロに女の子を誘えていただろうし、マヌエルはもしかしたら死ななかったのかもしれない。

次の日の昼頃、また彼女の家を訪ねた。
リビングでは彼女のレコードプレイヤーから甘い男の声で歌われた切ないメロディが延々と繰り返し流れていて、バスルームでは男物の服と子供用の服とトロフィーや写真や靴でいっぱいになったバスタブの中で、彼女は彼女の手首から流れる血に染まっていた。
割れたワイングラスと、血のように色づいた昨晩の煙草がマヌエルと同じように虚しく横たわり、どこか遠い昔のことを思い返しているかのようだった。
彼女が言っていたことが本当ならば、彼らにも輝く星の時代があったのだろうか。

今夜もひとつ、またひとつ星が死んでは生まれる。
人も動物も煙草もグラスも塵も埃もみな等しく
まるで孤独な兵士のように。

No tememos manana,
porque duermes y te levantas, ya es hoy.


END

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このページは、小椋夏子が2013年11月10日 23:34に書いたブログ記事です。

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