「She Came In Through The Bathroom Window」-The Beatles


「She Came In Through The Bathroom Window」


その宿は俺のように毎日何をするでもなく、ただそこに居座る人間たちの溜まり場だった。
日がな酒を飲みハシシを吸い、たまにぶらりと外へ出ては女を眺めまた宿へ戻る。
沈没船の墓場。一度入ったらなかなか抜け出せない薄暗い海の底のような場所。
居心地が良いとは決して言えないがどうしてか体が動かない。
その夏の間、俺は沈没船になっていた。

宿に備え付けられた薄いマットレスは南京虫の巣で寝られたもんではなく、
クラブで知り合った、大使館に勤めるフランス人の女から借りた高級そうな毛布をコンクリートの床に敷いて寝た。
隣の部屋との仕切りになっている3mmくらいの薄いベニヤ板は濃いグリーンで
いつもヤモリが10匹くらい張り付いていた。
ここに泊まるまで俺はヤモリが鳴くことさえ知らなかったが、ヤモリの鳴き声は女の嬌声に似ている。よがる女がたまらず漏らす声。
毎晩のように隣の奴が連れ帰ってくる娼婦との合唱が俺を楽しませた。
嫌がる奴も多かったが、俺はそれが可笑しくてたまらなかった。

娼婦はチャイニーズで、名前はリンと言った。
リンはいつも宿のロビーの隅に座ってハシシを吸うか、誰かとおしゃべりをしていた。
そして夜になると宿の客の部屋に行く。
しばらくそうして働いて、たまにふと思い立ったように出かけて行くことがあった。
一週間ほど姿を見ないなと思っていると、イタリアに行っていたと言う。
お土産にパイプをくれて、それにハッパを詰めて一緒に吸った。
ある時はインドに行ってきたと言い、「上物よ」と笑い俺に小さなタイガーバームの瓶を渡してきた。

ハシシを吸うと自分が”怪物くん”になった気分だ。
どこまでも腕がぐんぐん伸びて、宿のソファに座っているのに
腕だけがどこまでも伸びて行って、街のクラブのカウンターのその向こうの冷蔵庫から
ビールを掴んで戻ってくることだってできる。
彼女は吸いながらよく踊っていた。
裸になって、南京虫に刺された痕だらけの身体を揺らして。
ブロードウェイで踊っているつもりだった。
「いつまでも拍手が鳴り止まないの。だから踊っているの。もう50時間は踊ってるわ。でもちっとも疲れないのよ。コーチと毎日練習しているから、疲れないの。」
そう言う彼女はビール瓶と一緒に床につっぷして、指でトントンと地面を叩いているだけ。
みんなそれを見てまるでヤモリみたいだと大笑いした。


ある日、近所のクラブで盗難があった。
物を盗まれるなんてこの街では別に珍しいことではなかったがカモが悪かった。
被害にあったのが政府軍頭首の嫁の妹で、その子も相当ラリっていたが
もっとラリっていた奴に金目の物を全部盗られた。
最初に疑われたのは俺だった。何も無いこの街に何ヶ月もだらだらと居続ける外国人なんて疑われて当然だ。
疑いはすぐに晴れたが、次に目をつけられたのがリンだった。
たまたまその子と同じTシャツを着ていたことと、リンの従兄弟がゲリラ軍の一員だったというだけで彼女は道の真ん中で服を全て脱がせれ持ち物を調べられた。
彼女の持ち物といえばショートパンツのポケットに入れられたハシシだけ。
そのハシシが決め手になった。リンはそのまま政府軍のワゴンに乗せられどこかへ連れて行かれてしまった。
ハシシなんて誰でも吸ってる。誰でも。犯人なんて誰でも良かったのだ。


その晩、俺は自分がヤモリになる夢を見た。
ヤモリになって緑色のベニヤ板を這って歩く。
たまに「ア、ア、」と鳴き、ヤモリになった俺を寝転びながら見上げる、人間の姿の俺を見つめる。
無精髭でカリンコリンに痩せた酷い顔色の男。隈だらけの目には希望もなにも無かった。
ショットガンを頭に突き立てて、口元だけにやりと笑っている。
哀れで、気の毒。
目を背けて身体を捩った瞬間、板が赤く染まった。

目が覚めてから荷物をまとめた。
やっと訪れた危機感に急かされて、あいさつもそこそこに宿を飛び出した。
この街に思い入れなんてあるものか。
沈没船には苔が生えやがて帆は腐り、身体はバラバラになって
二度とかつての輝かしい姿には戻れない。
二度と陽の光を浴びることはできない。
ただ薄暗い部屋の中で南京虫に噛まれながらハシシを吸い酒を飲むだけ。

バスの窓から持っていたハシシとパイプを捨てた。
ポケットの中を探るとあの日のタイガーバームが出てきた。
中身はすでに空だが、掌の中でしばらく眺めていた。
「ハシシ持ってるか?」
隣に座っていた男に尋ねられ、俺はタイガーバームをとっさに窓の外へ放り投げた。
「ないよ。俺はハシシはやらないんだ。」
俺はもう沈没船ではない。

タイガーバームは砂に埋もれ
宿も街も遥か彼方。
バスは砂埃を立てながら太陽の真下にある砂漠を進んで行った。


END

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このページは、小椋夏子が2014年8月17日 19:57に書いたブログ記事です。

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