「Essa Mare」
大泥棒から電話がきたのはそろそろ床につこうと紅茶を飲み干し、痛んだ毛布を羽織りかけた時だった。
「やあ元気かい。」
歳の割に年寄り臭くしゃがれた声は受話器の向こうで機嫌良さそうに跳ねた。
「何の用だ今時分。」
「聞いてくれ、オレはスゴいものを盗んだぞ。これまでとはケタ違いだ。金塊や芸術品や宝石なんかとはまるで比べ物にならないさ。あんなものチューインガム一枚の価値だって無いが、昨日オレはものスゴいものが目の前に無防備に放っておかれていることに気がついたんだ。何だと思う。」
捲し立てるような彼の話より自分の爪の間に溜まった垢に気を取られていたが、急な問いに欠伸をかみ殺しながらやっとのことで「さあ」と答えた。
「分からないか、海さ。」
「海か。」
「そうだ。夜明けと共に皆気がつき出すぞ。くだらない財宝を必死になって守っていた阿呆共はどんな顔をするだろう。阿呆共の阿呆面が困って泣いて悔しがって、そのうち特上の阿呆面になるぜ。オレはそれをゲラゲラ笑って指をさすのさ。海を盗んだ罪は重いだろうがオレしか知らない特別な場所にしっかと隠したから、どんな優秀なお巡りでも名探偵でも見つけることはできないだろう。阿呆共が慌てに慌てて探す間、オレは波間に足をちゃぷちゃぷさせて星でも数えてのんびり暮らすんだ。」
垢を取る手を一旦止めてフムと考えた。海なんてそんな大きなものを隠す場所がこのパリにあるだろうか。いや、フランスにだってヨーロッパにだってあるかどうかは分からない。
「トーキョーに隠すのか?お前の故郷だっただろう。」
「阿佐ヶ谷にこいつが収まるかよ。」
まあそれもそうかと、このキチガイに馬鹿げた質問をしてしまった自分がどれほど眠気に襲われているか気づき、受話器を枕元に置いてベッドに潜り込んだ。遠くでボソボソと聞こえてくる声はひとりで熱量を増しているようだが内容はちっとも分からない。
「返してやるのかって?返すわけないよ、あぁ返すわけないさ!この身体が海にゆっくり沈んで底まで着いて、じっくり骨になって底を突き抜けて反対側の海面に出たって返さないぜ。この海はもうオレのものだ。」
「これでオレの名は歴史に深く刻まれることだろう。海を盗んだ大泥棒だ。オレは死ぬその瞬間まで海じゅうの垢を取り、小魚一匹残らずピカピカに磨き上げ、毎日夕日が沈む頃には詩を捧げ、小さなひと粒の泡の終末にさえ涙を流し悲しむよ。」
延々と続くざらざらとした小さな音が耳障りで寝るに寝られない。いい加減に話を終わらせようと頭だけ出して受話器に耳を寄せると、丁度それは質問だった。
「だから、お前もオレと行くかい。」
何処へ、と聞く気力もなく半分眠った喉から声を絞り出す。
「いいや、よしておく。明日早いんだ。」
「そうかい。」
じゃあまたなと言う初めとは打って変わった落ち着いた声色を有り難く思いながら、心置きなく固いスプリングに意識をとっぷりと沈ませた。
次の日の予定はルーブルへ忍び込むはずだったが、あいつの電話のせいで石像のように昏々と眠りこけてしまい絵画の一枚はおろかパンのひとつだって手に入らなかった。残ったのは鳥のように空を泳ぐ魚たちの夢だけ。
紅茶を飲み干したところでリーンと鳴った電話をS&Wで撃ち抜き、パリの透明な空を仰ぎ見る。
浮かぶ卵は転がるように流れ消えていった。
END
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